『デカルトからベイトソンへ』

序章

「世界と一体化した知を取り戻そう」科学がこれまでとは全く違った役割を演じる、真に人間的な文化の誕生を願っている

ルネサンス期には宗教的パラダイムが終わり狂気が増加。束の間の回復の後、現在。近代科学的、デカルトパラダイムが終わろうとし精神のありかたが崩れつつある。

自己の疏外を感じ物で心の隙間を埋めたり、社会の役割をこなす自偽の自己を冷ややかに見つめたりする。これは自分を守るためのシステムであるが、結局自身を滅ぼしている。人々が自分の人生に何も起きないのではないかという不安を抱えているのも人が空虚である証拠である。

これらの現象の増加の原因は単に科学のせいではないが、科学的世界が人・病める現代社会・集団管理等と密接に結びついているのだ。

今、近代以前に戻れないしこのまま進んでも破滅してしまう。近代前後の分析と今後の枠組みの提唱をする。

 

 

第一章

17世紀。ガリレオニュートンによってプラトンの「理性論」、アリストテレスの「経験論」は道具化され、内なる<理>と外なる<経験>は融合された。これこそが「科学革命」の最大の発見だ。テクノロジーは哲学のレベルにまで高められ、「自然の拷問台としての実験」という思想を生んだ。

結果、静的な思索は動的な科学へと変容し、ものは対象から素材へと変容した。数量化とはすなわち「知る」こととなった。

デカルトの「原子論」が現実の生は弁証法的に進む。内なる矛盾が存在しながら生きているのだ。

 

 

第二章

中世のアリストテレス的世界観から17世紀的世界観へ。自然に参加する意識が参加しない意識へ変容した。

15、6世紀の商業革命が封建の経済社会にもたらした変化は以下のようだった。封建制度は13世紀ごろには限界を迎え、人々は経済の地理的基盤を広げようとする。結果、帝国主義的な拡張志向(とそれに付随する発明)が急速に進み、資本主義体制が確立。その利益で農工業に投資され発展し金銭的価値が唯一の価値となる。キリスト教の核心に金銭が入り込み、トマスアクィナス的統合は破綻、図(p62)のような円環が完成した。円環的で有り余るほど豊富にあると思われた時間も直線的で短く貴重なものと考えるようになった。

世界の本質は文化の構築物にすぎないだろうか。

 

 

第三章

我々は正しくて過去は誤り。世界は不変である。のような近代の思い込み構造を解き明かそう

主体/客体の区別をしようとしたのはソクラテスプラトンが最初だが、主格一体の知は科学革命誕生までは錬金術や魔術として生き残っていた。

16世紀においてヨーロッパの認識論的枠組みとは 「知る」ことと「相似」の認識が同値であるということだった。

では主格分離は16世紀からの堕落だろうか、それとも進化だろうか。

ユングがいうには錬金とは自己実現を目指す精神プロセスなのだ。近代科学の誕生によって捨て去られたものだ

実は今でも弁証法的理性は精神的下層に存在している。近代科学はそれを無視する。

 

次に錬金術が滅ぼされた原因を探る。理由は2つある。1つ目は錬金術的伝統が常に持っていた二面性を引き裂かれたから。霊的・聖的な要素は弱体化したカトリックの拠り所になり、強調された。物質操作的な要素は理の追求とテクノロジーの進展と現世的救済を軸とする流れに取り込まれた(実は科学革命の母体は魔術だ)。2つ目は経済体制の変化(特にギルドの崩壊)によるものだ。情報を秘密裏に伝授する師弟関係は攻撃の対象となる。情報は活版で社会に拡散することが一般的になったからだ。

そして、デカルトと仲の良いメルセンヌガッサンディによる錬金術への攻撃が西洋におけるアニミズムの弔鐘となったのだ。

事実と価値の別を明確に、知は実術に基づかなければならないものとされた。同時に新しいメカニズムが誕生したのである。

 

 

第四章

ニュートンは世間に隠しながら錬金術に没頭していた。これは彼の生まれと育ちによるものであり、自分自身を厳格に監視すらしていた。数字化というのは彼にとっての支えだった。だが何年にもわたる自己抑圧の結果、機械論的哲学者になってしまう。

1666年、多くの人が錬金術から機械論哲学へと乗り換えた。ニュートンは板挟みの状態だった。結局彼はヘルメス的知に没頭し、世俗に出すときは機械論的哲学の用語でそれを包み込んだ。

1670年後半から1680年代においてヘルメス的知は復活した。その中心人物だったジョン・トーランドはニュートンアニミズム的思想を見抜き、指摘した。

ニュートンは密かにトーランドに賛同していたが、本来対抗しなければならないことを知っていた。しかし彼は自己検閲の強い人間であり、自分に嘘をつくことは許されなかった。さらに、狂信派が共産主義を掲げて王権、のちに議会派とも戦ったという政治的事件も起こった。

結果ニュートンは社会に認められるため、体制に順応するために機械論的哲学者へと変貌した。

機械論哲学者と化した彼の姿は見るに耐えない、絶望に満ちた表情をしている

 

ヘルメス主義から機械論的哲学への移行に関して、その非科学性以外に留意すべきことが2つある。1つ目はブルジョワジーイデオロギーと自由競争資本主義が勝利したこと。ものの意識がなければ多大な利益を手にすることができるからである。2つ目はピューリタン的人生観の台頭によって「典型的人格」が作られてしまったことだ。

 

狂気の話をする。狂気を持つとは主格一体の思想を持つということ。レインの著書『引き裂かれた自己』をみてもこれは明白だ。言い換えると狂気とは論理によって世界を区切ることに対する批判であり、人間精神を押し潰している現実原則への批判なのである。狂気が増えることは我々が弁証法的理性を取り戻さなければいけないことの反映なのではないか。

一方、今あるような一連の怪しげな神秘的・オカルト的運動は危険である。そうした運動を促しているのは実態を失った知性の理念であり、ブレイクが正しく糾弾した古典主義であるからだ。テクノロジーの根底には環境に対する敵意だけでなく身体と無意識との抑圧がある。この二つを取り戻す、すなわち単純なアニミズムに堕することなく、科学的に説得力を持つ形で「参加する意識」を取り戻さない限り人間であることの意味は永久に失われてしまうだろう。

 

 

第五章

第五章では3つの証明からそういった道の模索をする。

1)デカルトパラダイムに参加する意識が染み込んでいることの証明

我々は霊の存在を否定し自身の霊の働きを否定する。しかしバーフィールドの言葉を借りれば、いかなる文化においても「現象世界は意識と無意識との絡まりから生じているのであり、進化とは、両者の変容の関係に他ならない」のだ。デカルトパラダイムは、否定しているはずの参加する意識が染み込んでいるのがわかるだろう。

 

こうしたパラドックスの大きさは1920年代に復活する。量子力学の出現である。量子力学の理論的土台は、西洋科学の認識から完全に離脱している。アインシュタインを含めた古典物理学の認識論は①あらゆる現実は物体と運動によって完全に記述可能である②我々の意識は参加しない という2つの大前提があった。しかし量子力学は違う。量子力学の最も哲学的な意味は「独立した観察者など存在しない」ということである。実験する自分が物に影響を与えることを認めることは自分も自然に参加していることを認めることなのだ。そういう意味で量子力学は神学に接近した。

我々が現実に参加しているという認識が科学的思考の中にはっきりと組み込まれたとき、科学的世界観は大きく変容する。

 

2)参加する意識を現代に組み込むことで新しい認識論が生まれることの証明

探求すべきは「主体」と「客体」の関係という新しいイデオロギーである。

3)世界についての認識・知覚・知識は常に「参加」が入り込んでいることを認めれば根底的相対主義を抜け出せることの証明

これを認めれば根底的相対主義という概念自体が消え去ってしまうのだ。

 

 

第六章

内在的な秩序とは人間の情感に関わっているもの、すなわちエロスでなければならない。

ライヒは理知は根底において情物に根差していること、本能の抑圧は事実的にも歪んだ世界観を生み出すことを説いた。

本能と理性の結びつきが前意識段階の幼児期における科学的事実であることは生理学的観点から明らかである。

また、幼児期の全体論的経験が大人による世界の認知や理解においても生き続けているのも明白である。無意識の知は本能的に身体知だからである。

 

 

第七章

デカルト的哲学は価値を無視し、オカルト的哲学は事実を無視する。二つの哲学は単なる裏返しに過ぎない。

新たな枠組みとしてベイトソンに注目する

イアトムル族の行動から着想を得たベイトソン的統合は東洋思想と似通っている。物質よりも形に重要性があるとし、連続性が肝であるとした。文化は諸個人や諸要素を標準化するものと定義づけた。人は対称的・相補的分裂形成を繰り返し、これによる緊張は役割の交換や逆転によって緩和すると考えた。

 

 

第八章

本章はベイトソンの認識論について記述している。(ベイトソン的哲学は性質上直線的には語れないことが前提)

ベイトソンの認識論は<精神>を諸現象に「帯びる」ものと考える。故に錬金術アリストテレス主義と同じ特徴を有しているのだ

ただし、決定的に異なるのは「神」がいないという点である

 

 

第九章

ベイトソンの認識論の欠点は以下のとおりである(ただしその性質上政治的批判しか不可能である)

・意識がそれ自体で歴史を作ることはあり得ないこと(それだけでベーコンの世界からは抜け出せないこと)

・元のコンテクストが階級社会・上流社会からくるものであること

・意味のレベルを強化しすぎると抑圧/非抑圧の関係を逆に強化してしまうこと

・弟子が師をもう目的に崇拝する結果につながってしまうこと(地方分権によって民族的かつ生物的であることが解決の糸口)