『茶の本』


本文に入る前、岡倉天心の人となりがその弟によって書かれている。

そこにはヨーロッパを点々とした天心の、東洋思想が受け入れられないことに対する怒り、日本人すら東洋思想を放り投げ西洋思想を崇拝することへの苦悩が読み取れる。

 


第一章 人情の碗
茶の湯とは、日常生活の俗事の中にある美しきものを崇拝するものである。美を見出さんと美を隠しほのめかす行為である。

この考えを西洋人はどう捉えたのだろうか

遣唐使岩倉使節団は外国文化を学ぶためにあったが、ザビエルは外国に自文化を教えるために来日した。外国人には日本について学ぶ気すらなかったのだ。

人の心の茶碗は狭いのである。

しかし茶の湯を一部の人間は受け入れた。彼らは近代における物質主義によって心と物が分離した結果、居場所を失い、疲弊しきった人々であった。

物質は我々を奴隷にしたのである。

驚くべきことに、シェイクスピアもその一人であった。

そして現在、西洋人は独自のカップを使い、茶を楽しんでいる。茶そのものの魅力は全世界共通なのだろうと思う。

 


第二章 茶の諸流
茶の起源は中国にある。この章では唐・宋・明における茶の流派がそれぞれの時代を反映していることを踏まえた上で、当時の時代精神の変遷を書き記している

唐時代の茶人・陸羽の著書『茶経』によると、茶は紀元前2700頃にはすでに飲まれていたとされる。当時の茶は樹木からとった茶葉を湯で煮るだけの原始的なものであった。

唐は汎神論的象徴主義の時代であった。陸羽は茶の湯に万有を支配しているものと同一の調和と秩序を認め、これを組織立てた。これこそが『茶経』の執筆である。

宋では先祖の表象を写実的に表そうとされた。このとき、結果よりも過程が重んじられた。これによって茶は遊びから生きる術へと変遷した。

十三世紀。度重なる内紛により宋の文化は崩壊し、風俗習慣が変じた。唐・宋時代の茶文化を思い出せなくなり独自のものも生まれた。これが明の茶の湯である。

しかしこのとき、人生の意義に対する強い興味・信念を失い、茶はただの美味な飲料となった。実は西洋に茶の湯が伝わったのはこのときで、それ故西洋人は茶法を知らないのである。

 では日本はどうだろう。日本はそれぞれ遣唐使栄西足利義政の奨励により、3世代の茶の湯が確立されていた。そして日本は十三世紀、蒙古襲来に当たって撃退したため国内で宋の文化運動を続けられたのである。

結果、中国に優って日本だけが茶を生の術に関する宗教であるとし、茶の理想の極点にまで達したのである。

 


第三章 道経と禅経 
茶の湯を知るためには、その起源である道経・禅経を理解しなければなれない。

周朝は法律慣習が重んじられ個人思想を持たない時代であった。崩壊後、中華大陸は無数の大国となり、自由に思想を持ち始めた。老子荘子の登場である。

老子荘子は法を非難した。正邪善悪は相対的、すなわち無常なものだと考えていたからである。一方で保守的な一面もあり、茶の文化は続いていった。

道経は国の至る所に影響したとされるが、美学の領域への貢献が最も大きいものだった。

道経は処世術とも呼ばれ、自身を取り扱う物であった。老子は「物の真に肝心なところはただ虚にのみ存する」と言っている。
茶室の本質は屋根と壁に囲われた空虚であるから、道経との共通する部分が見えるだろう

禅経も道経と同じく相対を崇拝する個性主義であった。道教儒教との対立であったのに対し、禅経は正統の仏教と対立していた。

事物の大相対性から見れば大と小の区別はない

人生の些事の中に偉大を見出すこの考えは量子宇宙論をはじめとする様々なことに適用できる。

 


第四章 茶室
茶室は利休が生みの親である。西洋的観点からみると茶室は質素に感じるかもしれないが、全て深遠な芸術的思索の結果である。

茶室の簡素清浄は禅院の競いが起源である。禅院とは修業者が会合して討論し黙想する場のことだ。

ゆえに自己照明に通ずる通路としての小道をつくり、人に謙譲を教え込むためにかがませ、差し込む日光は和らぎ、ホコリひとつない部屋は静まりきっているのである。

話は東西の建築様式の比較にまで発展する

西洋建築は移動不可でありいつの時代も同じような見た目である。だから個性などないし均整な建築物が増える。レンガの建物はその一例だろう。
一方東洋では、伝統的に取り壊しと新築が繰り返されていた。移動可能といえるだろう。そういうわけで斬新な建築が可能になったし時代性も反映される。

天心は日本の状況を悲観ばかりしているわけではない。それは新しい時代性が作られていくことに対する期待なのだと思う。「新しい文化の創造があるならば、それほど悲観することもない」こう述べている。

 

第五章 芸術鑑賞
この章の冒頭、「琴ならし」の話が出てくる。誰も奏することの事のできない琴を伯牙は見事に弾いてみせるのだ。このときの心情を伯牙は「自分が琴か、琴が自分かわからない」状態であったと述べた。

天心はここに芸術鑑賞の極意を見出した。ただし注意すべきなのは作品が伯牙であって琴は自分の内なるところに存するのである。

故に個性も慣例も鑑賞力を妨げるし、修養によってしか美術鑑賞力は発展し得ないのである。

次に当時とその前との収集の違いを述べている。

当時の収集は表面的な熱狂を動機とし、流行や価格が価値尺度となっている。
その前の日本では、自分だけがおもしろいと思うものを収集することを理想とした。美しさが価値基準であり、高雅なものが尊ばれた。

現代でも当時の収集の傾向が続いているといえる。知らずのうちに他人から理解されうるものだけを集めようとしていないだろうか。

 


第六章 花
人と花が昔から現在に至るまで密接に関わり合ってきたのは言うまでもない。しかし、人々の花の扱いには思うところがあるようだ。

天心は、花が未だに禽獣の域を脱しないことに憤りを感じている。

花を蹂躙し、自然を破壊し、花の悲痛な叫びなど聞こうともせず花を美しさを褒め称える。花を無駄に生き長らせる医者のような存在。生花はそんな記述をされていた。

しかしこれには疑問が生じる。茶室に置かれている花はまさに自然から切り取って組み直したものではないか。

この答えは花の由来にある。

花というのは茶文化の一部であった。茶のために花を飾った。
このとき人々は花に対して最大限の敬意を払ったのである。植木鉢はそのいい例であるが、昔は御殿を植木鉢にしたというのだから驚きである。

あるとき、花は独立した。花のための花となったのである。

天心は、前者に対し人間の勝手さを指摘しながらも花への配慮があることで一定の評価をしているようだ。そして非難しているのは後者の方であった。

 


ところで、生花よりも花を無碍にする文化がないだろうか。

西洋の花に対する認識とそれに付随する文化は、日々大量の花々を摘み取り廃棄している。

西洋の文化をそのまま受け入れることに疑問を呈するのもこれらの理由からであろう。

 


第七章 茶の宗匠
この章では茶の湯が建築、陶器、絵画、上流社会の慣例から家庭の些事にまで大きく影響してきたことが改めて示されている。

その根拠づけとして、利休の最期を紹介している。

誰も信用できない時代であった。利休をよく思わない人物は、利休が秀吉の暗殺を試みているという噂を流す。
かつて利休と親しい間柄であった秀吉も、ちょうど疎遠だった時期のせいもあり噂は無視できなかっった。さりとて旧友である。秀吉は利休に自害を命令した。

利休は自害する日、客人を招き最期の茶会を開くのである。
利休の動作ひとつひとつに茶の精神の修養が見て取れる。
茶会を終えると、利休は茶室から汚れを取るために自身の使っていた道具を割り、生涯を終えるのであった。

 


おわりに 感想
個人的には疑問を持つ部分も多くあった。アメリカやヨーロッパ諸国の文化は一括りにはできないし、生花を批判するからにはもう少し深く取り扱って欲しかったようにも思える。東洋の文化、日本の文化を手放しで褒め称えることもできない。

しかしこの本から東洋思想の重要さは感じ取れた。外国人向けに書かれたのは、天心が西洋と東洋の文化統合を目指していたからだろう。

本文を書くにわたって主張に対する根拠等を一部省略しているため、特に過激に感じるかもしれない。実際かなり偏った内容もあるのだが納得できる理由づけもされているので是非読んでもらいたい。